2009年01月18日

森は生きている(マルシャーク)




とある国の14歳のわがままな女王は、真冬の12月に4月に咲くマツユキソウが欲しいと言い、国中にお触れを出します。そのため国中は大騒ぎ。

ご褒美の金貨が欲しい母と娘は、代わりにいつもお手伝いのように使っている次女のままむすめを真冬の森に送り込むのですが…。

この物語の主役は、理不尽な命令で真冬の森の中をマツユキソウを探すはめになったために、偶然大晦日の晩に集まる1月から12月までの月の精に出会い、4月の精と婚約して(?)幸せになるままむすめ(すごいネーミングだね)だけど、やはり、12ヶ月の精たちが支配する「森」そのものが一番の主役ですね。

12ヶ月の精は12名、
老人が3人、中年が3人、青年が3人、そして少年が3人です。
いつも薪やソダを拾いに森に入るままむすめは、
月の精たちもみな知っていました。
彼らは気立てのいいその子を助けるために、
森の中に4月を作り出し、マツユキソウを彼女に与えます。

そんな彼女から手柄を奪って、ままははとむすめがお城に向かったものだから、女王がマツユキソウを取りに森に入ることになるのです。

人々は、月の移り変わりを自然の中で感じていたんでしょう。
1月の雪、2月の吹雪、3月の雪解け、4月の開花…
そうした自然への尊敬や畏れがこの物語の元になる民話となったんでしょうね。

僕の生まれ育った北海道は、ロシアほどではないにせよ、
豊かな自然に囲まれていたんですね。
懐かしいです。
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2009年01月16日

「落城」「足摺岬」など(田宮虎彦)


田宮虎彦が自殺したニュースは、当時ビックリしたなあ。
実際は新聞報道だけで、それ以上の騒ぎはなかったんだけどね。
僕が田宮虎彦を読んだのは「落城」と「足摺岬」だった。
何回も書いたけど、大学に入った当時、
僕は通学の列車の中で読書していた。
作家ごとに一冊を読もうと決めていて、
たぶん、倉橋由美子の後に田宮虎彦の本を読んだと思う。

…慶應四年十月十六日、仙台にあった奥羽追討の西国勢主力についに北上の動きがみえた。
前日幕府方軍艦捜査を名として石巻より北上した土佐、肥後、津和野三藩聯合二枝隊七百の兵と呼応するように、この日辰の刻薩摩安芸二藩聯合三百五十、薩摩佐土原二藩聯合五百六十の二枝隊が仙台を発ったのである。

この書き出しで、黒菅藩という架空の小藩の滅亡を淡々と書いた「落城」では幕末という大きな歴史の流れの中で無力な武士たちの最期が描かれる。

「足摺岬」では、自殺をするために訪れた足摺岬で、元佐幕派の藩士だったらしく、壮絶な戦いの中で、妻と赤子にとどめをさしてから、薩長連合の軍勢に切り込みをかけるも、死に切れずに生き残ってしまったことを語る。彼らの言葉を聞いて。主人公は、自殺をあきらめる。
そして、小説は主人公が再び足摺岬を訪れる場面で終わります。

普通、一度生きる決心をして自殺をあきらめた主人公が、再びこの場所をおとづれるとしたら、普通は「生きててよかった」的な流れになってくると思うんだけど、再び足摺岬を訪れた主人公は別な絶望と後悔の中にいるんだよね。

作家は作中人物たちに容赦ない。
救いを用意してくれない。

昔、日経で田宮虎彦の「私の履歴書」を読んだ。
彼の小説と同じで暗く、あまり救いのない内容だった気がする。
今回調べることができなかったが、彼は昔詩人になろうとして、
三好達治か丸山薫に師事し、結局叶わなかったような事が書いてあったと記憶しているんだけど、はっきりと覚えてない。

彼の書く人間って、弱くて情けなくて悲しい。
でも、弱くて情けなくて悲しいから生きる価値もあるんじゃないかって、思いたいんだけど、田宮さん自身が自殺してしまったから、余計に悲しいね。

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2008年12月30日

さようならギャングたち(高橋源一郎)




高橋源一郎の小説を一読して、何かがわかったって言える人はスゴイ。
無条件に感心してしまう。
あの人の本は、読んで何かを考えるというより、読みながら混乱して何かを感じるものですな。

そう思わないと、彼の学生運動でデモに参加し、逮捕された経験とかを加味しても、何を言ってるのかわからない。
だいたいギャングが何だかわからない。
メタファーと言われる比喩(暗喩)をいっぱいつかい、
筋らしい筋立ても見当たらない。
物語を否定してるんでしょうかね?

そう考えると、一見子供でも書けそうな文章も、
なるほど、文学的な表現に見えてくる。

頭をぼ〜っとして読みきって、
読み終わった後なんだか変な気持ちになって、
何かが頭の中に残ればいいかな?
それが作者のたくらみでもありそうな気がするし。

…そんなところで勘弁して
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2008年12月17日

ティファニーでは朝食は食べられない




あ〜あ、ティファニーなんて一生行く事ないんだろうなあ。
と思わせるお話じゃありません。

「ティファニーで朝食を」と言えばオードリー・ヘプバーンが可愛かった映画が有名。
だけど、もう皆さんが知ってる通りで
ホリー(役名)がティファニーのショーウインドの前でパンとコーヒーを食べるシーンはない。
名曲「ムーンリバー」を歌うシーンもない。
ハッピーエンドでもない。

何たって、ホリー・グライトリーは奔放、気まぐれで、時には凶暴になったり、つかみどころがない。
郵便箱の名詞には【ミス・ホリディ・グライトリー『旅行中(トラベリング)』】と書いてある。
しょっちゅう部屋の鍵をなくしたと言って他の住人の部屋のベルを鳴らしたり、主人公を弟の名前であるフレッドと強引に呼んだり、
「42(才)まえの男の人になんか魅力を感じないのよ。」と言ったり、
主人公を買い物に付き合わせ山のようにピーナツバターを買わせたりする。街角で偶然であった名前のない猫といっしょに暮らしている。

まったく付き合いにくい女性に違いない。
15歳のときに拾われた、人のいい獣医ゴライトリーのもとを飛び出してしまう。
ホリーにほれ込んだO.J.バーマンが、彼女を映画スターにしようとしても、肝心の本人はオーディションをすっぽかしたりする。
そして言うんだね。自分は映画スターになんかなれっこない。
自我をすっかり捨ててしまわなければスターになどなれっこないし、
そして自分にはそれができないと。
「(略)といっても、あたしがお金持ちになり、有名になることを望まないというんじゃないの。むしろ、そうなることがあたしの大きな目的で、いつかはまわり道をしてでも、そこまで達するようにつとめるつもり。ただ、たとえそうなっても、あたしの自我だけはあくまで捨てたくないのよ。ある晴れた朝、目をさまし、ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自信というものは失いたくないのね。(後略)」

この小説のティファニーはここで出てくる。
文庫本なら58ページだ。
あ、ちなみに僕の読んだ本は瀧口直太郎の訳です。
今なら村上春樹で読むのかなあ。

もちろん、ティファニーで朝食は食べられない。
それは成功の例えという事らしい。
だから、別に映画のようにむりやり朝食を食べなくてもいいのだ。
ここまで気まぐれな女に振り回されるラスティもホセも主人公もバーマンも災難かも知れないが、一方でその誰もがずるくて自分勝手な奴だとも思える。
彼らはみな自分の鳥かごにホリーを入れようとしてあがいたように見えるし、それは結局無理な話だって事も知ってる。

彼女は刑務所にいるサリー・トマトという老人(麻薬密輸業者)と結託したとの疑いで捕まり、仮釈放中の身でありながらブラジルへ旅立ち、そのまま行方不明になる。最後に消息がわかったのはアフリカらしい。
主人公は、ホリーに、彼女が捨てた猫を探してくれるように頼まれた。
彼女が去ってから、ある日、主人公はその猫が新しい飼い主の下で暮らしているのを見つけ、ホリーにも安住の地があることを願う。
そこで、原作は終わっている。

可愛い女性はいつまでも記憶に残るもんなんだね。

以前中途で断念したこの物語を今回読了した。
ホリーのイメージがかえってぼやけてしまったが、
それでよかったような気もする。
うまく言えないんだけどね。

全く感想というものではありませんので、あしからず。
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2008年11月30日

老人と海(E.ヘミングウェイ)




高校生の時、英語の宿題でこの本を原書で読んだ。
短くて、使った単語も難しくないはずなのに
翻訳には割合に苦労した。
結局訳本に頼る事になるわけだが、
何しろ訳者が福田恆存なもんだから、
(表現が)あっているのかどうか、不安だったね。

あれから30年、
今は、この本を読み直してみようかなと思っております。
僕がサンチャゴみたいになれるかわからないが。
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2008年11月24日

ペスト(カミュ)





大学の時に半分読んで脱落した小説。
結局、「ペスト」は諦めて「異邦人」になってしまったわけだが。
今回、久しぶりにカミュを読んでみて、
体力が無くなったなあと実感しましたね。
なんたって、文庫本で458ページもあるんだからね。

ただ、異邦人の主人公が、自分の中でも消化できない不条理を抱えて最終的には死を望んでいくのと異なり、
ペストという大きな不条理に立ち向かう人々の姿に単純に感動したな。
この物語の主人公である医師リューをはじめとして、タルーや官吏のグラン、司祭のパルヌーや記者のランベール、老医師カステルに至るまで、物の考えや信じるところ全て異なる人々が連帯していく。

主な登場人物の仲で死んでいくのは司祭のパルヌー、そしてタルーくらいなもので、実際は多くの名前も出ない人々がこの背景で死んでいくわけで、これが不条理といえば一番の不条理です。

そして、結局のところ、ペストは彼らに負けたわけではなく、勝手に消えていくわけなんだが。

だから、この災厄が再び人々の前に現れない保障はないわけでね。
どこまでも、「死」は不条理なものです。
この本を読んだとき、この「死」というむなしさと、人間には「団結」よりも「連帯」の方が必要だなと感じたことを思い出したんですよ。

僕の感想は、世のカミュに対する評論に比べればその1%にも届いていないものでしょう。
僕は哲学なんざあ、皆目わからないし、まして、社会人生活を長く送ると、それなりに合理的な人間になってしまってますからね。

若いときに読みたくて読みきれなかった古典はいっぱいあります。
いまさらあの日のリベンジで読んでも、もう昔ほど感じることはできないかも知れません。

でも、どんなすばらしい内容のものでも、結局本は読み捨てられてしまうものだと思うので、精読しようとするあまり、途中でギブアップするくらいなら、読み飛ばしてでも読みきってしまったほうがいいと思います。

今から読み直した結果、結局つまらないものであっても、そのつまらなさに気付けただけでも良かったんじゃないかって。
作者の意図や評論家が褒め称える真理が理解できなかったとしても、
「わからない」事を意識できるだけでも、読書の価値はあると思います。
posted by とたけけ at 13:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月16日

子供の心は帰ってこない…(「星の王子様」)




「ねえ、僕に羊の絵を描いてよ」

サハラ砂漠に不時着した主人公の前に現れたへんてこな格好をした男の子。
しきりと羊の絵を描いてくれと懇願するその子のために男は紙とペンを取り出す。

それをきっかけに仲良くなった男の子に、自分が飛行機でここに来たことを話すと、彼は笑って
「なあんだ、きみも空から来たんだ! どの星にいるの?」
と言うのだ。
そして、主人公はこのこども(王子)からさまざまな話を聞くのだ。
ここは、王子がやって来たななつめの星なのだという。
王子はいままで訪れた星の話をする。
年老いた王様が住むひとつめの星
とても小さな王子のふるさとの星。
みえっぱりの住むふたつめの星
のんだくれが住むみっつめの星
とても忙しい、しごと人間のいるよっつめの星
あかりと、あかりつけの入るばしょがあるだけのいつつめの星

王子のふるさとの星にはわがままな花が咲いている。

友達のキツネはいろんなことを教えてくれた。
王子の言葉はいろんな事に気づかせてくれる。
「星がきれいなのは、見えない花があるから……」
「さばくがうつくしいのは、どこかに井戸をかくしてるから……」

そして王子は言う。
「だいじなものっていうのは、見えないんだ……」

「ひとには、みんなそれぞれにとっての星があるんだ。たびびとには、星は目じるし。ほかのひとにとっては、ほんのちいさなあかりにすぎない。あたまのいいひとにとっては、しらべるものだし、あのしごとにんげんにとっては、お金のもと。でも、そういう星だけど、どの星もみんな、なんにもいわない。で、きみにも、だれともちがう星があるんだよ……」


彼は自分の星に帰っていく。
ヘビにたのんだのか、。
なにかが、きいろくひかっただけだった。
くるぶしのちかく。あの子のうごきが、いっしゅんとまった。
そして音もなく、そおっと倒れてしまったのだ。

この絵本を読んで考える事は多い。
気づかされる事も多い。

でも忘れてしまった。
そして今僕はこの星に生きてる。
posted by とたけけ at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月15日

ユタとふしぎな仲間たち(三浦哲郎)




最近は、劇団四季のミュージカルとして有名になった、
三浦哲郎の小説「ユタとふしぎな仲間たち」
東北ののどかな村にやってきた東京からの転校生勇太(ユタ)。
彼は(文中では「ぼく」)田舎暮らしになかなか慣れなかったが、
寅吉じいさんが話す「座敷わらし」の話に興味を持ち、
満月の夜、大黒柱のある古い家に一人で泊まることにする。
すると、そこへ本当に座敷わらしが姿を現すのだった。

ペドロ、ダンジャ、ジュノメェ、ゴンゾ、トガサ、ジンジョ、
モンゼ、ジュモンジ、ヒノデロ…。

みんな、生まれてすぐに飢饉のため口減らしにあった子供たちだという。
彼らの姿は仲間であるユタにしか見えない。
そしてユタは、彼らとの交流を通じて大人になっていくんだね。
生きたくても生きることができなかった彼ら座敷わらしの気持ちに触れながら、ユタは田舎の子供たちに受け入れられていく。

ま、都会から田舎に来た転校生が、大人になっていくテーマは
よくある話だと思うんだけど、
自分の経験を考えても、
田舎に行って地元の子供たちと仲良くなるには、
なにかのきっかけが必要なわけで、
それが、この作品では「座敷わらし」との交流だったわけだけど、
主人公自身が自分で強くなっていかないとダメなんだね。

ほかの例と比較しましょうか?
のび太がドラえもんを介してジャイアンやスネ夫たちをやり込めたとしても、結局のび太自身が強くならなければいけない。
自立した人間にならなければ、仲間にはなれないんだ。
ドラえもんはいつも、そこに苦労する。
ドラえもんに甘えて、四次元ポケットから出てくるいろんな道具で、
目の前の問題を楽してクリアしてしまう現状にね。

ユタが、もしペドロたち座敷わらしの世界に逃げ込むようなら、
それは、やはり仲間たちに認められる一人前の男にはなれなかっただろう。

もちろん、この物語にも別れはやってくる。
ペドロたちが潜んでいた「大黒柱のある古い家」が火事で燃えてしまい、彼らの居場所がなくなってしまったからだ。

ペドロはユタに別れの挨拶をして、彼らの乗り物であるエンツコに乗って遠くの村に飛んでいってしまう。

でも、ぼくには、ユタはもう彼らに会いに行くことはないように思えるのだ。
少し寂しい気はするけど。
大人になるというのはそういうことだから。
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2008年10月09日

痴人の愛(谷崎潤一郎)

MaryPIC.jpg


ナオミという名前はどうしてこんなにもエロチックなんだろう?
この本を読み終わったときそう感じた。
数十年ぶり(たぶん30年ぶり)に再読しても、その読後感はあまり違わない。
人によっては、異常に興奮するかもしれないし、また、気分が悪くなるかもしれない、耽美主義と言えば、コレほどまでに露悪的に自らのマゾヒズムを文学にまで高めた作品を僕は知らない。

河合譲治という堅物の電気技師が、普通の伝統的な結婚や、男女関係に不満を持っていたため、自分の手で理想的な女性を作り上げ、妻にしようという野心を持ち、カフェの女給だった、まるでメアリィー・ピクフォードみたいな15歳の美少女ナオミを見初め、兼ねてからの計画を実行に移す。
言わば、紫の上を養育した光源氏のような事をしたわけだね。
向こうの作品だったら、ジョージ・バーナード・ショーの「ピグマリオン(マイ・フェア・レディ)」と言ってもいいか…。

もっとも、この計画は失敗に終わる、どこに出しても恥ずかしくないレディに育てるつもりが、教養は身につかず、それどころか、手当たり次第に男を持て遊ぶ妖婦になってしまう。(そう上手くはいかないわな)
そして、自分の手に負えなくなった女に幻滅し、一度は家から追い出したものの、結局譲治はナオミの肉体の魅力の前にひれ伏し、何でも言うことを聞かされる奴隷のような存在になる。しかも、財産を全て処分し、彼女のために尽くし、彼が与えられるのは、耳に息を吹きかけるような軽いキスだけなのだ。

美しい蝶に育てようと思ったら蛾になってしまった。
しかも、その蛾には中毒性の毒があった。

そんな感じかな?
自分の人生に準えて考えてみたけど、
「冗談じゃねえ!」って一言だよ。
こんな女一人のために破滅していく、男って悲しいよね。
その逆もあるんだろうけど、
僕は自分が一番だから。

ところで、この作品の序盤、しきりと出てくるメァリー・ピクフォ−ドとはアメリカのサイレント映画時代の名女優の事なんだけど、
イメージが湧かなかったので
今回、調べて画像を載せてみました。
ナオミのイメージつくりになってくれればと思います。

しかし、この作品が1924年3月に書かれたってのが信じられないね。
現代にもありそうなモダンな作品です。
もちろん、個人的に全く理解できませんけど。
posted by とたけけ at 02:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 作家た〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月10日

名人伝(中島敦)




まずは、大相撲の話から
名横綱、双葉山定次が前人未到の69連勝を果たした後、
伏兵安藝ノ海に敗れた日の夜、自ら師と仰ぐ安岡正篤に「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電したそうな。

ここでいう木鶏とは、中国の古典「荘子」の中にある有名な話で、
闘鶏の軍鶏を鍛えに鍛えた結果、木で彫った鶏のように何にも動じなくなったという物語です。
「鳴くものありといえども、既に変ずる無し。これを臨むに木鶏に似たり、その徳、全し」
ようは相手の軍鶏が何を泣いても全く動じず顔色も変えず、闘わせれば相手は闘わずして逃げてしまう境地にまで至ったというわけ。

似たような話は他にもあります。
今回紹介しようとしている中島敦の「名人伝」がそうです。
中学生の時に読んだような気がしますね。

「趙の紀昌(きしょう)という男が、天下一の弓の名人を目指し、
百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中すると言われた、東大随一の名人、飛衛(ひえい)に弟子入りした。
最初の教えは「瞬きをしない」という事。
紀昌は妻の機織台の下で仰向けになって眼前すれすれに動く機具を瞬きせずに見つめ続け、2年が過ぎると機具が睫毛を掠めても、鋭利な錐先で瞼を突かれても、不意に火の粉が目に飛入ろうとも、目前に突然灰神楽が立とうとも、紀昌は瞬きをしなくなっていた。
滑稽な話だが、彼は熟睡していても目だけはカッと大きく見開かれたままであったとの事だ。小さな蜘蛛が睫毛の間に巣をかけるにいたって修業は終了(アホだ)
次の教えは「視る」事。
紀昌は、虱を一匹捕まえて髪の毛で結わえると、それを窓に懸けて、一日中睨み暮らした。
そのうち虱は4ヵ月後には蚤くらいの大きさに見えてきた
また3年の月日が流れると、窓の虱は馬のような大きさに見える。
外をあるけば、人は高い塔のように、馬は山のように見える。
ここにいたって紀昌は師より射術の奥儀秘伝を授けられる。
1月の後には、100発の矢を射て、速射を試みたところ、100本の矢は、重なってまるで1本の矢のように連なった。
調子にのった紀昌は、師飛衛を排除しようとして失敗。
彼が師と扇ぐ邯鄲老子のところに行きなさいと言う。

この人はもっと凄い
みえない弓で見えない矢を射れば、鳥は羽ばたきもせず中空から石のごとくに落ちて来るのです。感服した紀昌はその師匠の元で、9年修業しました。
その結果:弓が何だかわからなくなっていた」

滑稽話なんだか教訓話なんだかちっともわからなかったが、
当時の僕は面白く読みました。
今でも面白いです。

それにしても、弓矢を窮めた結果、弓を忘れてしまったとは、
だから、道を極める事は意味がないと思うか、名人って所詮そんなものと笑うか?何かの黒い寓意を感じるか?努力の空しさを感じるか

それはアナタ次第、結局物語なんてそんなものです。


posted by とたけけ at 14:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 作家な〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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