2009年06月28日

江戸に遊ぶ11(高橋克彦『おこう紅絵暦』)


おこう紅絵暦 (文春文庫)

おこう紅絵暦 (文春文庫)

  • 作者: 高橋 克彦
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2006/03/10
  • メディア: 文庫




高橋克彦さんは「炎立つ」で有名になった


おこうは北町奉行所筆頭与力の妻、元は柳橋芸者ですが、もっと昔はばくれんと呼ばれた今でいうとヤンキーみたいな過去もある、情にもろくてきっぷも度胸もある女性です。
そのおこうが、嫁に優しい舅の左門と力をあわせ、江戸の巷を騒がせるさまざまな難事件に挑むというのが筋です。
この話、捕物帖としては少し異質な物語になります。

当時の武家の嫁がいかに窮屈な身分であったかを考えれば、自由に外に出て、ましてや犯罪を暴くなんてのは不可能に近い。
亭主の仙波一之進は融通の利かない頑固者で仕事人間。
ほとんど家にはいない有様です。

ここで重要なのが、舅の左門。
この人、年齢のせいで腰が悪いが、息子の嫁の鋭い勘を信じ、共に現場に出かけたりする。
他にも少し心もとないが、忠義な仙波の手下である菊弥、フットワークの軽い絵師の春朗(後の葛飾北斎)が絡んで、おこうを助ける。おこうが推理する探偵なら、この3人は実働部隊というわけだ。

全部で12編ある物語は、全て最初は普通の事件と思われたものが、おこうのふとした勘がきっかけで、思いもかけない裏側が見えてくると言う具合。さらに、ひとつの物語に登場した人間が別の物語には違う役割で登場するので、全体に深みが増しておもしろい。

中には少々ずるくないか?と思えるトリックもあるが、多くは心地よい裏切りです。それがどれかは、読んでみて下さい。

本書は『だましゑ歌麿』の姉妹篇との事。
この中に登場する春朗は、別な作品『春朗合わせ鏡』で主役を張ります。

高橋さんは、歴史物からSFまで広く作品を書かれている作家で、(江戸に遊ぶ)シリーズに入れるのはどうかと思ったのですが、他の作品を読んでないので、入れました。

何で読んでいなかったか?
実は、この前に図書館で借りた高橋さんの本が、何か超自然やらオカルトやらに関するもので、それもまともに信じているような感じだったので、読まなかったのが本当のところで、今回調べたらそういう人がいっぱい居るみたいですね。

同じ事は平井和正にも言えるんだけど。
posted by とたけけ at 11:55| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 作家た〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月16日

「落城」「足摺岬」など(田宮虎彦)


田宮虎彦が自殺したニュースは、当時ビックリしたなあ。
実際は新聞報道だけで、それ以上の騒ぎはなかったんだけどね。
僕が田宮虎彦を読んだのは「落城」と「足摺岬」だった。
何回も書いたけど、大学に入った当時、
僕は通学の列車の中で読書していた。
作家ごとに一冊を読もうと決めていて、
たぶん、倉橋由美子の後に田宮虎彦の本を読んだと思う。

…慶應四年十月十六日、仙台にあった奥羽追討の西国勢主力についに北上の動きがみえた。
前日幕府方軍艦捜査を名として石巻より北上した土佐、肥後、津和野三藩聯合二枝隊七百の兵と呼応するように、この日辰の刻薩摩安芸二藩聯合三百五十、薩摩佐土原二藩聯合五百六十の二枝隊が仙台を発ったのである。

この書き出しで、黒菅藩という架空の小藩の滅亡を淡々と書いた「落城」では幕末という大きな歴史の流れの中で無力な武士たちの最期が描かれる。

「足摺岬」では、自殺をするために訪れた足摺岬で、元佐幕派の藩士だったらしく、壮絶な戦いの中で、妻と赤子にとどめをさしてから、薩長連合の軍勢に切り込みをかけるも、死に切れずに生き残ってしまったことを語る。彼らの言葉を聞いて。主人公は、自殺をあきらめる。
そして、小説は主人公が再び足摺岬を訪れる場面で終わります。

普通、一度生きる決心をして自殺をあきらめた主人公が、再びこの場所をおとづれるとしたら、普通は「生きててよかった」的な流れになってくると思うんだけど、再び足摺岬を訪れた主人公は別な絶望と後悔の中にいるんだよね。

作家は作中人物たちに容赦ない。
救いを用意してくれない。

昔、日経で田宮虎彦の「私の履歴書」を読んだ。
彼の小説と同じで暗く、あまり救いのない内容だった気がする。
今回調べることができなかったが、彼は昔詩人になろうとして、
三好達治か丸山薫に師事し、結局叶わなかったような事が書いてあったと記憶しているんだけど、はっきりと覚えてない。

彼の書く人間って、弱くて情けなくて悲しい。
でも、弱くて情けなくて悲しいから生きる価値もあるんじゃないかって、思いたいんだけど、田宮さん自身が自殺してしまったから、余計に悲しいね。

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2008年12月30日

さようならギャングたち(高橋源一郎)




高橋源一郎の小説を一読して、何かがわかったって言える人はスゴイ。
無条件に感心してしまう。
あの人の本は、読んで何かを考えるというより、読みながら混乱して何かを感じるものですな。

そう思わないと、彼の学生運動でデモに参加し、逮捕された経験とかを加味しても、何を言ってるのかわからない。
だいたいギャングが何だかわからない。
メタファーと言われる比喩(暗喩)をいっぱいつかい、
筋らしい筋立ても見当たらない。
物語を否定してるんでしょうかね?

そう考えると、一見子供でも書けそうな文章も、
なるほど、文学的な表現に見えてくる。

頭をぼ〜っとして読みきって、
読み終わった後なんだか変な気持ちになって、
何かが頭の中に残ればいいかな?
それが作者のたくらみでもありそうな気がするし。

…そんなところで勘弁して
posted by とたけけ at 18:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 作家た〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月09日

痴人の愛(谷崎潤一郎)

MaryPIC.jpg


ナオミという名前はどうしてこんなにもエロチックなんだろう?
この本を読み終わったときそう感じた。
数十年ぶり(たぶん30年ぶり)に再読しても、その読後感はあまり違わない。
人によっては、異常に興奮するかもしれないし、また、気分が悪くなるかもしれない、耽美主義と言えば、コレほどまでに露悪的に自らのマゾヒズムを文学にまで高めた作品を僕は知らない。

河合譲治という堅物の電気技師が、普通の伝統的な結婚や、男女関係に不満を持っていたため、自分の手で理想的な女性を作り上げ、妻にしようという野心を持ち、カフェの女給だった、まるでメアリィー・ピクフォードみたいな15歳の美少女ナオミを見初め、兼ねてからの計画を実行に移す。
言わば、紫の上を養育した光源氏のような事をしたわけだね。
向こうの作品だったら、ジョージ・バーナード・ショーの「ピグマリオン(マイ・フェア・レディ)」と言ってもいいか…。

もっとも、この計画は失敗に終わる、どこに出しても恥ずかしくないレディに育てるつもりが、教養は身につかず、それどころか、手当たり次第に男を持て遊ぶ妖婦になってしまう。(そう上手くはいかないわな)
そして、自分の手に負えなくなった女に幻滅し、一度は家から追い出したものの、結局譲治はナオミの肉体の魅力の前にひれ伏し、何でも言うことを聞かされる奴隷のような存在になる。しかも、財産を全て処分し、彼女のために尽くし、彼が与えられるのは、耳に息を吹きかけるような軽いキスだけなのだ。

美しい蝶に育てようと思ったら蛾になってしまった。
しかも、その蛾には中毒性の毒があった。

そんな感じかな?
自分の人生に準えて考えてみたけど、
「冗談じゃねえ!」って一言だよ。
こんな女一人のために破滅していく、男って悲しいよね。
その逆もあるんだろうけど、
僕は自分が一番だから。

ところで、この作品の序盤、しきりと出てくるメァリー・ピクフォ−ドとはアメリカのサイレント映画時代の名女優の事なんだけど、
イメージが湧かなかったので
今回、調べて画像を載せてみました。
ナオミのイメージつくりになってくれればと思います。

しかし、この作品が1924年3月に書かれたってのが信じられないね。
現代にもありそうなモダンな作品です。
もちろん、個人的に全く理解できませんけど。
posted by とたけけ at 02:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 作家た〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月25日

「堕落」(高橋和巳)




自慢でも何でもないが、
僕は大学1年の4月から通学(札幌ー小樽)の間に本を読もうと決めて、新潮文庫を片っ端から買って読みふけりました。

自分は速読ができる人間でもありませんでしたが、
何とか半年で100冊を読むことができました。

それも1人1冊と決めて読んでの100冊だからそれなりにいろんな文体に触れることができた。

今の自分が、商売をしているわけでもないけど、趣味で文章を書く時、下地になっているのは間違いなく、あの当時の乱読だったと思う。(もっとも、読んだ片っ端から忘れていくのもたいしたものだが)

しかし、そんな中でも、読もう読もうと想いながら一番文学を吸収できるあの時期に読めなかった作家が何人かいた。

直木三十五、池波正太郎、斉藤栄、中里介山、大西巨人、五味川順平、川崎長太郎…
理由はいろいろありますよ。作品が長すぎた。文庫が出てなかった。出版社が潰れた。偏見があって通俗小説は後回しにした。などなど…。

そんな中で、なぜ僕は高橋和巳を読まなかったのか?
埴谷雄高や井上光晴、野間宏、椎名麟三とかは読んでいたのに。
この人と小田実については読んでいない。
当時の事を考えると、多分どれを読もうか考えすぎていたのが原因だったのだろう。
「邪宗門」「黄昏の橋」「悲の器」「憂鬱なる党派」「我が心は石にあらず」
どれもこれも、当時の憂鬱な学生だった自分にはその作品群は魅力的だった。特にその題名のセンスは素晴らしかった…そして、結局選びきれなかったのだった。

あれから30年…、ようやく手に取った高橋作品は「堕落」だった。
かつて大陸に幻の国を造る事に奔走し、理想に敗れ、戦後は混血児を育てる仕事に就き、表彰される青木周三。しかし、その裏では彼自身、「堕ちていく」事への願望が止められなかった…。

読めてよかったと思った。
そして、やはり、若いうちに読むべきだったと思った
posted by とたけけ at 01:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 作家た〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月30日

寺山修司の競馬文学




競馬の文学と言えば、何を思い出しますか?
一時期は宮本輝の「優駿」が映画にもなって話題になりましたね。
実在の馬、メリーナイスがモデルになった話で、競馬に携わるいろんな立場の人たち〜馬主・牧場主・調教師・騎手などの思いがよく描写されていました。

しかし、競馬には、馬という美しい生き物を仲介にしたピュアな世界であると同時に、ギャンブルというもうひとつの側面があります。

寺山修司の競馬文学には、緑の牧場も、藁の匂いのする厩舎も出てきません。
彼の文章には、歌舞伎町のトルコ風呂(今はソープランドと呼ばれてますが)や深夜映画館や、新宿の飲み屋がでて来ます。
登場人物も、トルコ風呂で仕事中に死んでしまった唖者の女を忍んで「声の出ない馬」に賭け続けるバーテンの鉄、
元相撲取りで、大きな馬の馬券を買うノミ屋の集金係大ちゃん、
2着の馬を当てる名人だったヒモ流しの長さん、
金曜の夜になると、どこからともなく集まって隻眼の馬を探してその馬券を買うという「片目のジャックの会」、
東大に8回落ちてミストルコ(ソープ嬢)になった今も女の時代を信じて牝馬しか買わない蜜枝…。
人生、少し横にはみ出した人たちが出てきます。
夜、タバコの煙、安酒の入ったコップ、そして背中を丸めた男達。
彼の本に出る競馬は、近頃JRAが宣伝するようなスノッブなものではありません。
それは男達の苦しい人生や儚い夢を投影したスクリーンなのです。

「競馬への望郷」(寺山修司 作)

この本に納められた物語の中でも、特に好きなのは、新宿歌舞伎町裏通りにある酒場「ダメおやじ」に集まって、未勝利の馬を買い続ける男達の話です。
このダメおやじの会、大學を10回受けて10回落ちた男、49回失恋した男、女房に逃げられた男など要するに人生負け続けの男達の集まりです。
彼らが買うのは勝てない馬達〜未勝利馬です。
彼らは人生に勝てない自分を投影する未勝利の馬達を愛し、その馬券を買い応援する一方で、その馬が勝たない事を心の奥底では願っているという、複雑な心情で競馬に参加するのです。

妻に逃げられ、失業し、何もかも失ったダメおやじのどんガメ。
彼はどん底の自分の秘かな自負と小さな夢をサクラコという未勝利場に賭け、その馬券を買い続けます。

ほれ込んで馬券を買い続けて10戦目、ついにサクラコはレースに勝ちました。

「サクラコ万歳!」

どんガメは取った馬券で朝まで飲みました。しかし、飲んでるうちにわびしくなります。サクラコも勝って自分の前から居なくなってしまう。自分はいつまでも未勝利のままだ。どう生きればいいのだろう?
翌朝一番、どんガメは都電に飛び込んで、死んでしまうのです。
若い頃、この話を読んで、不覚にも泣いてしまいました。
僕も若いくせに早くも人生に絶望し、未勝利の自分に絶望していたからです。
しかし、どんガメが死に、その後寺山修司自身も死んでも
僕は死にませんでした。
G1クラシックは取れませんでしたが、僕の人生という競馬にはまだ終わりはありません。

この本の冒頭の詩「さらば ハイセイコー」は、当時繰り返し読んだものです。

「ふりむくと 一人の少年工が立っている 彼はハイセイコーが勝つたび うれしくて カレーライスを三杯も食べた…」と始まるこの長い詩の終盤にはこう書かれています。

「ふりむくな ふりむくな 後ろには夢がない ハイセイコーがいなくなっても すべてのレースが終わるわけじゃない 人生という名の競馬場には 次のレースをまちかまえている百万頭の名も無いハイセイコーの群れが 朝焼けの中で 追い切りをしている地響きが聞こえてくる」

百万頭のハイセイコーの群れとは、人生を生きる我々自身だったんだね。
寺山修司の「言葉」はあれから30年以上過ぎても僕の心を揺振り続けます。
posted by とたけけ at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 作家た〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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