2009年12月30日

子宮の記憶(藤田 宜永)


子宮の記憶 <ここにあなたがいる> (講談社文庫)

子宮の記憶 <ここにあなたがいる> (講談社文庫)

  • 作者: 藤田 宜永
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2006/12/15
  • メディア: 文庫




映画にもなったお話。
歯医者を父に持つ裕福な家庭で、何不自由なく暮らしていた17歳の真人は、いつも苛立っていた。

いつも、自分が家族に愛されていないという感覚が彼を悩ませていたのだ。ある日、真人は自分が生後3日である女に誘拐されていた過去を知る。
そして、自分を誘拐した犯人が真鶴に住んでいると突き止め、彼女に会いに行くことを決意する。自分がもし、誘拐されたままだったら…。
自分の居場所を求めて真人は仮名を使い、その女=愛子の働く海の家でバイトとして雇われるのだが…という筋。

詳しく書くとネタバレになるんだろうけど、
この子が、自分を誘拐した「つかの間の母親」に抱いている感情は複雑で、読んでいても「何をしたいのか?何を考えているのか?」わからなかった。
そして、結局最後に思ったのは「何も考えてない」と言う事だった。
美佳というエキセントリックな女性との恋愛も、「何でこんな女性が好きになるんだか」わからなかった。
僕は願い下げだね。自殺してしまう沙代の方が感情移入できる存在だ。

で、一番思ったのは…子宮の記憶というタイトルに関わる
人と人とのつながりを意識させる部分が最後まで感じられなかった。

少なくとも、僕には。

筋としては面白かったけど。
生後3ヶ月で自分を誘拐した女と一緒に暮らす状況って、
もう少し違ったものにならないだろうか?

これ以上はうまく言えません。
ただ、作品そのものに文句をつけているわけじゃないから。
posted by とたけけ at 02:58| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月24日

ペスト(カミュ)





大学の時に半分読んで脱落した小説。
結局、「ペスト」は諦めて「異邦人」になってしまったわけだが。
今回、久しぶりにカミュを読んでみて、
体力が無くなったなあと実感しましたね。
なんたって、文庫本で458ページもあるんだからね。

ただ、異邦人の主人公が、自分の中でも消化できない不条理を抱えて最終的には死を望んでいくのと異なり、
ペストという大きな不条理に立ち向かう人々の姿に単純に感動したな。
この物語の主人公である医師リューをはじめとして、タルーや官吏のグラン、司祭のパルヌーや記者のランベール、老医師カステルに至るまで、物の考えや信じるところ全て異なる人々が連帯していく。

主な登場人物の仲で死んでいくのは司祭のパルヌー、そしてタルーくらいなもので、実際は多くの名前も出ない人々がこの背景で死んでいくわけで、これが不条理といえば一番の不条理です。

そして、結局のところ、ペストは彼らに負けたわけではなく、勝手に消えていくわけなんだが。

だから、この災厄が再び人々の前に現れない保障はないわけでね。
どこまでも、「死」は不条理なものです。
この本を読んだとき、この「死」というむなしさと、人間には「団結」よりも「連帯」の方が必要だなと感じたことを思い出したんですよ。

僕の感想は、世のカミュに対する評論に比べればその1%にも届いていないものでしょう。
僕は哲学なんざあ、皆目わからないし、まして、社会人生活を長く送ると、それなりに合理的な人間になってしまってますからね。

若いときに読みたくて読みきれなかった古典はいっぱいあります。
いまさらあの日のリベンジで読んでも、もう昔ほど感じることはできないかも知れません。

でも、どんなすばらしい内容のものでも、結局本は読み捨てられてしまうものだと思うので、精読しようとするあまり、途中でギブアップするくらいなら、読み飛ばしてでも読みきってしまったほうがいいと思います。

今から読み直した結果、結局つまらないものであっても、そのつまらなさに気付けただけでも良かったんじゃないかって。
作者の意図や評論家が褒め称える真理が理解できなかったとしても、
「わからない」事を意識できるだけでも、読書の価値はあると思います。
posted by とたけけ at 13:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月01日

ラブレター(岩井俊二)



拝啓 藤井樹様 あなたは誰ですか?

中山美穂の主演で映画になった、というかこの映画を監督自らノベライズしたもの、なんでしょうね。
映像作家である岩井さんの書いたこの小説は、随所に映像を意識した、と言うより自分の頭の中にしっかりした映像イメージを浮かべて書いた感じが強くします。
つまり、読み進めた時に浮かぶ映像がとてもはっきりしているのです。
ちなみに、僕は、この映画をまだ見ていません(笑)

失った恋人「藤井樹」、亡き婚約者の住んでいた小樽にラブレターを送ったら、思いがけず返事が来た。そこには同姓同名の「藤井樹」が住んでいたのだった。
このアリエネエ前提を抵抗なく受け入れさえすれば、時の流れを挟んだ甘酸っぱいラブストーリーが手紙というモノローグで浮かび上がるのです。
フィアンセ藤井樹を亡くした女性は過去に捕らわれ、ラブレターを受け取る少女藤井樹は、今に生きています。
終盤のエピソードもいかにも映画らしい。
小樽の母校で流行っていた「藤井樹捜しゲーム」
プルーストの「失われた時を求めて」に挟まっていた図書カードの裏に主人公似顔絵があった事や(するとこれがゲームのゴールか、なんて考えたりして)
少女樹の祖父が「樹」という名前の由来を話す場面〜庭の樹と同じ名前を付けた〜など。
ちなみに、小樽は僕が青春を過ごした場所。
潮風と灰色の海と水の濁った運河は、僕の想い出の中に残ってますね。
posted by とたけけ at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月08日

神はサイコロを振らない




1994年、宮崎発羽田行きの報知航空の旅客機が飛行中に消えた。
それが10年後の2004年、突然現われ何事も無かったかのように羽田空港に到着した。10年前と同じ姿で…
しかし10年前と変わらない乗客たちを迎えるその親族(遺族?)たちの事情とその環境は大きく変わっていた。

設定を考えれば、荒唐無稽を絵に描いたような物語。

過去の改変により現代の事象が影響を受けるという、所謂「タイムパラドックス」を話題にするドラマは多いが、これは別の話。 むしろ、自分達が不在の間に起きてしまった大きな変化の結果としての現実を、10年前と変わらぬ乗客たちはどう受け止めるか?失われた10年で大きな変化を経験した遺族達は彼らという過去をどう受け入れるか?と言うテーマを扱うためにはタイムトラベルによる現在と過去の邂逅という「力技」を使わなければならなかったと言う事でしょうね。

それ故に、すっきりしない展開もあり、また都合のいい結果もあったりするが、それを別にしても作者の狙いは成功したと言えると思う。

 
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2007年01月21日

「解夏」さだまさしと言う才能

歌手や俳優といったタレント・アーティストが詩や小説、随筆(エッセー)を書くのはよくありますよね。
山田邦子、斉藤由貴、大槻ケンヂ、木根尚人、他にも黒木瞳は詩集を出しています。(エッセーの盗作問題で断筆した安倍なつみのような例もあるけど)
タレント本はゴーストライター問題が昔からあり、昔から職業作家より一段下に見られがちですが、タレントは感性が豊かで表現する才能がある人が多いので、創作意欲も人よりあると思われます。
その意味では、さだまさしのように作詞をする人は、その延長で小説も簡単に書けそうな気もしてました。
だけど、よく考えれば歌詞という、意味を短い言葉の中に詰め込んで表現するものと、小説のように文章を重ねて、さらに行間を使ってその後ろに意味をあぶりだすようなものは、表現方法が違うんですよね。
(たとえが上手くなくてすいません)
さださんは確かテレビ番組で小説を書き始めたと記憶しているのですが、処女作「精霊流し」に関して言うと同名の名曲を越えるものではないような気がします。
今回読んだ「解夏」は映画になり、ドラマになりそれなりの評価をもらっています。
ボクはその両方とも見ないで今回小説「解夏」を読みました。
とても淡々と、象徴的な表現を抑えて平易な文章で目が見えなくなる恐怖、それを受け入れようとする覚悟と煩悶、彼を見つめる周囲の人々とそれら全てを包む故郷長崎の風景…。
 さだまさしは、やっぱり小説家でした。
「秋桜」「水底の村」「サクラサク」作品の後ろに流れる詩情はそのままで、表現方法は見事に変えてきました。
それだけに、歌のように言葉ひとつに象徴された鮮やかなイメージはないにしても、読後にじんわり湧き上がる感じはやさしいものでした。
posted by とたけけ at 12:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月13日

我輩は猫である(夏目漱石)

「我輩は猫である。名前はまだない。」
この書き出しで始まる「我輩は猫である」は確か最初の新聞小説だったと思います。違ってたらごめんね。お札にもなった「文豪」夏目漱石の初期の代表作で、ボクが初めて小学校の読者感想文で賞をもらった本です。
そして今でも人間以外の動物を主人公にした小説でこれ以上のものはないという人が多いです。
もっとも、後に井上ひさしが「ドン松五郎の生活」という小説を書いたけど、やっぱり「猫」の方が好きですね。
主人公は「猫」なんですが、猫自身のエピソードよりも、漱石自身がモデルと思われる語学教師珍野苦沙味先生、寒月(寺田虎彦がモデルと思われる)、友人の美学者迷亭、他にも東風(文学者)、独仙(東洋研究者?なんだったっけ?)といった登場人物の言葉のやり取りが大好きです。
初めて読んだ時は難しい漢字の多さに閉口したもんですが、読み飛ばして読んでも読めるものです。
ところで、この小説最後まで読んだ人って意外と少ないんじゃないですか?
最後はビールに酔った猫が甕の中に落っこちて溺れ死ぬわけです。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、有難い有難い」と言うのが確か最後の文章です。


posted by とたけけ at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月10日

鬼平犯科帖(池波正太郎)

もし、「鬼平」の世界に触れた人なら、
「五鉄」の軍鶏鍋を食べたくなるだろう。
「一本饂飩」を啜りたくなるだろう。
真田蕎麦を食べたくなるだろう。
いや、食の話ばかりで申し訳ないが、
つまり、江戸という時代の風俗をこれほど生き生きと活写した小説は
それまで読んだ事が無かった。
火事と喧嘩、厳しい身分制度と貧困が支配した江戸時代は、
現代からは信じられないくらい不自由な時代に思えるが、
実際は、当時の人々はもっと逞しく、もっと陽気にその日を懸命に生きていたのではないだろうか?
池波先生の小説には、そうした人達を優しい目で描いているものが多い。
司馬遼太郎では理詰めで冷たい、山本周五郎では少し泥臭すぎる。
池波正太郎の明るさがボクは好きです。

posted by とたけけ at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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